20世紀末期、日本にいくつもの大型プロジェクトが企画され、その中に日本列島の南北軸を走る自動車道の構想があった。三遠南信自動車道もその一つで、「三河」「遠州」「南信州」の県境を越えた開発構想である。その道路のインターチェンジが、東栄町にできるということが発表され、地域ではそのインター建設にともない、活性化策を考えることになった。(このまま進めば、何もしなければ、逆ストロー現象によりますます過疎に拍車がかかるのではないかという心配がある。)
平成9〜10年度(1997〜1998年度)、町行政が主体となり、住民参加を得て「三遠南信自動車道東栄インターチェンジ(仮称)周辺整備構想・東栄に生きる」を作成した。それまでに、町商工会や民間グループ等からも多くの提案があり、町として公式な構想「東栄に生きる」を立ち上げたのである。一般的に周辺整備構想というと、インターができる予定の場所を中心に土木建築図面が中心となる開発型のものが主流。しかし、今回の構想は、多くの住民の方々の意見を吸い上げて作成するうちに、全く異なる構想に仕上がった。たしかに自動車道のインパクトは大きく、多くの意見が出た。しかし、「東栄町らしさ」を失わないこと、「アイデンティティの伝承と21世紀の道しるべ」をかかげ、「道路ができたらこの町は救われる」的な発想ではなく、「道路ができた時には、この町に来たくなるものがたくさんある町」、「道路に関係なく、この土地で生き続けることができる」ことをまとめあげたのである。その基本は「循環可能な地域資源を利用したまちづくり」。柱は「木」「食」「道」とそこに存在する「人と仕組み」である。このようなまちづくりが進めば、自ずと周辺は整備されるものである。逆にこのようなコンセプト不在ではいくらハード整備をおこなっても、その整備は矛盾だらけの金食いお荷物施設をつくるだけである。決して地域住民のためにはならない。
平成11年(1999年)6月6日、「東栄未来体感記念日」という構想発表イベントがおこなわれた。単にこの構想を発表しても、その構想は動かない。この発表日から動くことが重要であるという見解から、構想の柱となっている「木」「食」「道」をどのように未来に結びつけるのかを表した体感イベントを開催した。「木」は地元の木材を使用し、広域で参加者を募り、木工コンテストをおこなった。「食」は地元産の畑でとれた食品を使用し、都市部からの参加者と地元のホストファミリーが協力してお菓子づくりコンテストをおこなった。「道」は、既に利用されなくなった旧生活道を参加者を募り、歩くというもの。もう一つ、「木」をテーマに、地元に住む和太鼓プロ集団「志多ら」プロデュースによる「ばちづくり」教室も併催した。この日から構想は動き始めたのである。あくる日からさっそく「東栄まちづくり倶楽部」が活動を開始し、「木工コンテスト」をきっかけに「間伐材利用の木工部門」「お菓子づくり研究部門」がスタートした。「木工部門」は折りたたみテーブルやチェアーを開発し、半年後の平成12年4月「東栄まちづくり倶楽部 木材利用開発会」として独立した。現在も順調に活動中である。「お菓子づくり研究会」も会として独立はしていないものの、東栄町のイベント等があるたびに若い主婦層を中心にミニアルバイト的な楽しい会となり、特産品開発に一役かっている。小麦も自作しはじめた。旧道等を利用したウォーキングコースも数本ストックされた。
平成12年度(2000年度)、東栄町が「2000年記念イベント」をやろうという企画が立ち上がった。テーマは「木」である。千年に1度のイベントにすべく、役場スタッフ一同は智恵を絞った。まず、構想をつくった時のように参加希望の住民の方々にスタッフとして入っていただこうということになり、公募をかけ、約30名のボランティアスタッフが集まった。
木をテーマにイベントを組み立てるということで、まずゲストに「チェンソーアート世界チャンピオン・BRIAN RUTH 氏」を招きデモンストレーションと技術講習会を開催。デモンストレーションでは「日本(地元)の大工技術」も協演する。それまでにまず地元の子供達に「木」の良さや楽しさを知ってもらおうと、夏休みを利用して「親子木工教室」を開催した。地元の大工さんの集まりである「太子講組合」と「東栄まちづくり倶楽部 木材利用開発会」が協力し、東栄町にある全小学校をまわった。「太子講組合」の大工さんたちは、6月6日東栄未来体感記念日から全面的に協力してくれている。イベント当日は11月3日、ブライアンと大工さんのデモンストレーション・パフォーマンスの他、子供達が参加する丸太投げ競争、大きな鋸で丸太切り体験、樹木の名前当てクイズ(県事務所林業振興課協力)、木にまつわる短歌・俳句発表等々、多くのイベントが行われた。(イベント名称:東栄welcome21「木と遊ぼ!」)技術講習会に参加したのは19名。その中に参加者番号1番の伊藤忠氏がいた。
2001年1月、伊藤忠氏の呼びかけで東栄町内の技術講習会参加者等が集まり、チェンソーアートクラブの設立準備を始めた。このまま何もしなければ意味がないと、伊藤忠氏は多くの仲間に呼びかけた。
2001年4月8日、29名で「チェンソーアートクラブ マスターズ オブ ザ チェンソー 東栄」が設立された。その後、マスメディアの方々の協力により50名以上の会員数となった。
チェンソーアートクラブは、チェンソーアート技術者集団であると同時に、まちづくりや日本人のライフスタイルの提案者として、また、多くの効果を出せる活動を今もおこなっている。 今ではその活動からプロ(専業者)も誕生し、東栄のクラブ自体も納税団体(人格のない社団)となった。補助金で活動する団体ではなく社会活動で納税しているのである。また、チェンソーアートは全国に飛び火し、日本全国各地で活動がはじまっている。
なぜ、チェンソーアート、なぜブライアンルース氏だったのか。
(有)チェンソーアート・ジャパンケイジ 談
ブライアン氏とはじめて会ったのは、1997年11月、「大道芸ワールドカップinしずおか」の会場でした。世界のトップクラスの大道芸人たちが集い、その「技」を競い合うイベントの中でキラリとひかるブライアン氏とチェンソーアートがそこに紹介されていました。それを日本に紹介したのが永原正義氏ら。彼らは、チェンソーアートとブライアン氏は、必ず日本にとって大きな存在になると信じ、各地でプロモーション活動を行っていたのです。ブライアン氏と永原氏の2人は、そのイベントが終わったあと、北設楽郡設楽町の我が家を訪ねてくれました。その夜、日本の山村部の過疎問題やチェンソーアートの可能性について多くを語りました。それから3年、東栄町からイベントの相談をうけ、記念イベントにゲストとしてふさわしい人材として紹介し、招聘が実現しました。また、彼なら、イベントだけでなく東栄町が構想にあげている「木」のまちづくりにも大きな効果をもたらしてくれると確信していました。ブライアンは言われました。「これらの出来事は偶然ではない。既に未来に記されていることなんだ。」
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